2012年06月29日

「阪神・淡路から東日本へ神戸の教訓は生かされたか?」第5回

120621_inada.JPG
◆トーク1
120621_intervew.JPG
◆トーク2
120621_fieldwork.JPG
◆トーク3
◆トーク4
◆トーク5


posted by FMYY at 16:48| Comment(0) | podcast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月21日

「阪神・淡路から東日本へ神戸の教訓は生かされたか?」第4回

120614_ueki.JPG120614_ueki1.JPG
本日第四回目のタイトルは「忘れ去られる震災」です。
初めまして、総合政策学部、国際政策学科二回生の植木和貴です
メディア情報学科二回生の竹川祥希です
同じく村上広野です
同じく谷本悠介です
同じく山口まさひろです。
120614_ueki2.JPG
私たちは、ひょうご・まち・くらし研究所常務理事である山口一史さんに、お話をうかがいました。
山口さんはひょうご・まち・くらし研究所を通して、市民が持っている課題を発見し、市民と行政をつなぐ、通訳的役割をしています。山口さんは、新聞社やラジオ局での職務を経験し、その後ひょうごまちくらし研究所を設立されました。
様々な経験をされてきた方なので、最初はどんな方なのだろうと緊張していましたが、実際に会ってみると、とても話しやすく、優しい人だという印象をうけました。
今回はまず、ひょうご・まち・くらし研究所の設立理由からひもといていき、次に研究所の活動内容・仮設住宅における様々な問題点・人と人とのつながり、の流れでお伝えしていきたいと思います。
まず初めに、ひょうご・まち・くらし研究所の設立理由からお伝えしたいと思います。
120614_ueki3.JPG
山口さんに、なぜひょうご・まち・くらし研究所を設立したのかと質問したところ。阪神大震災のときに集まったボランティアの人たちの、いきいきとした姿を見たからだとおっしゃいました。
自分たちが何か得するわけでもないというのに、なぜ、こんなにもいきいきと笑顔でボランティア活動をしているのだろう。もしかすると、ボランティア活動というのは、とてもやりがいのある仕事なのではないだろうか、と考えたそうです。このことに関して、村上君はどう思いますか?
この兵庫まちくらし研究所は「行政と市民の通訳」という役割のためにこの研究所を作られたそうです。山口さんは、このひょうご町暮らし研究所は、阪神淡路大震災があったからこそ、作ったとおっしゃっていました。この言葉は、私の中で大きく印象に残っています。山口さん自身も阪神淡路大震災の当時、神戸で被災されていました。そのような状態の中で、山口さんは、自身の足で被災現場を歩き、何かできることはないかと、一被災者、一市民の視点で復興について考えたそうです。
阪神淡路大震災の当時のボランティアというのは、現在のように確立されたものではなかったそうです。今でこそ、ボランティアを統括し派遣する団体がたくさんありますが、阪神大震災の当時はボランティアの人たちは自分たち自身で行く場所を決め、ひとりひとりが思い思いにボランティア活動をしていたそうです。
被災者が何を感じ、何を求めているのかという気持ちは、実際に被災してみないと、なかなか理解することが難しいと私は感じました。正直、私には、被災するという状況を想像することができませんでした。しかし、山口さんの、実際の体験を聞いて、被災地には、被災者の視点からしか分からない、様々な問題があることを知り、復興と一言でいっても、様々な問題が絡んでくることに気付かされ、単純な問題でないということを改めて知りました。
120614_ueki4.JPG
被災者の身になり、実際に被災現場を見て、その中でボランティア活動をして、初めて、被災現場の問題点を把握、理解することができるのだと気づかされました。山口さんは実際に被災され、その中で復興に向け、ボランティア活動に励んでおられたからこそ、被災者の生の声、ニーズを行政につたえることが重要であることに気付いたのだと私は思いました。行政には届きにくい、でも届けなければならない被災者の声を伝えることの重要性を知ることが出来ました。

私自身は実際に被災地でのボランティア活動をしたことはありませんが、私の友人に東北に実際にボランティア活動へ行った人がいます。その友人は、ボランティアを終えて帰ってくると、「震災に対する見方が変わった」と話していました。その友人はボランティアへ行く前は、軽く考え、他人事のように感じていたそうです。しかし実際に現場の空気を吸い活動する中で、被災地に様々な問題があり、被災者は様々な苦悩を持っていることに気付いたそうです。その友人の話を聞き、被災地にもさまざまな問題があるということを知り、単純な問題ではないということをしりました。だからこそボランティアの人たちのような本当に被災者のことを考えている人たちこそが復興をするためには必要であると感じました。

山口さんは「一番怖いことは震災を忘れられることだ」とおっしゃっていました。
東日本大震災から一年半経ちますが、まだまだ復興への課題がたくさんあります。その中で私たちにできることはたくさんあると私は思います。この震災のことを忘れずに、被災者の声を聞き、復興のために考え、小さな行動でもすることが、復興へとつながっているのだと私は思っています。

ありがとうございました。僕も復興には、ボランティアの存在が重要だと思います。
僕の家族も、阪神淡路大震災の被災者なのですが、両親からボランティアのありがたさについて、よく聞かされました。たとえ、どんなに軽い気持ちであっても、ボランティアをすることは尊いことだと思います。最終的には、考え方が変わり、本気で復興のことについて考えるようになったと、ボランティア経験のある友人も言っていました。復興に関わるタイミングを逃した方も、まずは小さなことでいいので、復興に携わっていくべきであると感じました。
次にひょうご・まち・くらし研究所の活動について話したいと思います。
ひょうご・まち・くらし研究所では被災者の暮らしを再建するために、被災地の作業所で手芸品の作成を援助したそうです。そうして収入を得るとともに、コミュニケーションの場を作りました。
こうした活動について、竹川君はどう思いますか。
まず、私がひょうご・まち・くらし研究所の活動をきいて感じたことは、私が今まで考えてきた、復興支援とは違った形の支援であるなぁ、ということです。人と人とのつながりを強化し、人間関係を構築することで、復興を支援する、という形を、私は想像していなかったからです。
私が想像していた、復興というのは、建物を建築しなおして、町としての表面的な形をとりもどす、ということを一番に考えた復興だったからです。しかし今回のインタビューをへて、復興を支援するために一番重要なことは、そこに、人が住んでいる、ということを一番に考えることである、と気づかされました。
人が集団で生きていくためには、人間関係を構築しなくてはならないとおもいます。だからこそ人間関係がうまくいけば、自然と、そこに住む人たちに、活気が戻ると思うのです。つまり、表面的な形ではなく、人が住んでいるということを、一番に考えた復興をするためには、まずコミュニケーションの場を作る、ということが一番重要である、と思いました。そういった意味でひょうご・まち・くらし研究所が行っている、作業所での手芸品の作成を援助するということは、とても大きな意味を持っていると思います。この作業所での仕事は給料が手に入るということ以上に、人間関係の構築の場として、大きな役割を果たすと思います。
今回のインタビューで、山口さんがおっしゃった言葉の中に、一つ、とても印象に残っている言葉があります。その言葉というのが、「復興で大切なのは、制度ではなく、人間である」という言葉です。この言葉には、本当に被災地が復興するためには、いかにすばらしい制度を作り上げるか、ということよりもいかに被災者の声を聴いた復興支援をするか、ということが重要である、という意味が込められていると、私は思いました。
遠くから数字やデータだけで、被災地の状況を知るのではなく、実際に、「被災地」の状況を自分の目でみて、「被災者」の声を自分の耳で聴いて、実際に人が住んで、聞いているということを身に染みて実感することが、復興を支援するのに必要であると思います。
しかし、実際に復興計画を立てている人たちには、被災者の生の声というのは届きにくいと思います。だからこそ、ひょうご・まち・くらし研究所のような、行政と市民の間に立つ「通訳」のような存在は、とても重要であると感じました。
ありがとうございました。僕も被災者にとって最も重要なのは、人間関係だと思います。長期に渡る集団生活の上では、仲間同士の助け合いが必須だからです。人間関係を第一に考えた、ひょうご・まち・くらし研究所は多くの被災者を支えたと思いますし、阪神大震災の被災者であったからこそ、人間関係を支えるという支援が出来たのだと思います。物資を与えるだけ与えて、あとは放っておくというスタイルが、今の日本です。被災者にとって、一番大切な人間関係をおろそかにしているようでは、復興にかかる時間は長くなるばかりだと思いました。
次に、仮設住宅における問題点についてお伝えします。
山口さんに、東日本大震災と阪神大震災の違いについて聞いたとき、仮設住宅に様々な問題があるという話をききました。
これについて山口君はどう思いますか?
仮設住宅について聞いた話の中に3つの問題があげられていました。1つは、仮設住宅の玄関の向きに関する問題、2つめがお風呂のスイッチの問題、そして3つめがバリアフリーが考慮されていないという点です。
まず玄関についてですが、仮設住宅の玄関をすべて同じ方向に向けてしまったせいで仮設住宅地でのコミュニケーションの機会が失われていました。玄関を向い合せにすればふと家をでたときなどに顔を合わせ自然とコミュニケーションができたのではないのでしょうか。
次にお風呂のスイッチについてですが、コストを削減するために電気と換気扇のスイッチがおなじであったというのです。これでは寒い真冬であっても明かりをつければ換気扇が回り、寒さに耐えながらお風呂に入らなくてはなりませんでした。
そして最後にバリアフリーの面が配慮されていなかったということですが、このせいで高齢者の方たちは大きな苦労をすることになってしまいました。しかしこの問題はボランティアの方たちがブロックを持ってきて積み上げるなどして改善がされました。こうした行政の人の生活を考えていない政策が大きな問題となっています。
私自身も阪神大震災の一被災者で公園に設けられた仮設住宅に暮らす祖父母の元によく遊びに行っていました。そこでは屋根の下で暮らせるというだけで数多くの問題を抱えていました。
エアコンといった空調設備は、申し訳程度であまり効いておらず、夏は暑く冬は寒いという、お年寄りには厳しい環境でした。また、壁は薄く換気口からは外が大きく見えており、密集した住宅であるため、隣が少し大きな声で喋るだけで丸聞こえになってしまうという、快適とは言えない状態でした。
さきほど紹介した山口さんから聞いた東北大震災における仮設住宅の現状を聞く限り、阪神大震災でのこういった問題点や反省は17年近く経った今でもあまり生かされていない印象を受けました。
また、避難所から復興住宅へ移り住むための道が一本道であるということも、大きな問題であると思います。現状では避難所に住んでいなかった人は自分で生活する手段があるとして、仮設住宅にもいれてもらえず、そのまま復興住宅に移り住むこともできないのです。こんな状態では本当の意味での復興ができないと思います。だから、一本道ではなくもっと柔軟な形での支援をしていく必要があるように感じました。
ありがとうございました。復興住宅における問題点は、今度こそ改善すべきだと思います。体育館などの劣悪な環境で、復興住宅を待ち望みにしている人の期待を裏切ってはいけないですし、仮設住宅に入れない人を放っておいていいわけがないからです。地震大国である日本が先陣をきって、多くの災害経験を活かした対策次に、人と人とのつながりについてお伝えします。
これまでの話から、復興のためにはコミュニティの存在が重要であると言ってきましたが、このことについて、谷本君はどう思いますか?
これまでの話を聞いて、私はコミュニティの必要性を、再確認させられました。災害時においては、人と人とのつながりは、とても大切なものだからです。一言で人と人とのつながりといっても、人と人とのつながりには、二種類あると私は思いました。
一つ目は、個人の意見を、政府に伝える手段としてのつながり、二つ目は、自分の生活を、より充実させるためのつながりです。
一つ目の、個人の意見を、政府に伝える手段としてのつながりは、東日本大震災において、必要不可欠だったと思います。東日本大震災は、東北という、田舎ならではのコミュニティを築いている地域が、被災したため、コミュニティと、政府との間をとりもつ存在の重要性が、再確認されました。災害時だけではなく、普段から、地方の声を政府に届けることは、あらゆる災害に直面した際に、被災地の人々の、大きな助けとなります。普段からできていない意思疎通を、被災した際にはできる、なんてことはありえません。なので、普段から、自分たちの声を、政府に届けようとすることは、とても大切なことだと思います。被災時には、きちんと被災者の意見を政府に届けることで、適切な支援も期待できるうえ、その支援は、被災者の心の支えとなることでしょう。被災地の声を早く、正確に政府に伝えることが、早期復興を実現することの手助けとなると私は思います。
二つ目の、自分の生活を、より充実させるためのつながりも、大きな災害に見舞われた際には、必要なものでしょう。東日本大震災において、仮設住宅への入居者の決め方は、抽選によって行われました。この抽選という制度は、大きな問題を抱えています。それは、もともと存在していたコミュニティを、崩してしまうということです。抽選によって、もともと同じ地区に住んでいた人々が、別々の場所で生活することを、強いられてしまいました。この影響で、仮設住宅において、コミュニケーションがとりにくく、人と人とのコミュニケーションが、失われてしまう結果となりました。これでは、行政に、被災者として声を届けるどころか、日常の生活すら、満足にできなかったのではないかと思います。そんな状況では、復興を目指すことはできないと私は思います。
以上より、私は、自分の声を、政府に届けるためのつながり、そして、自分の生活を、充実させるためのつながりが、とても大切な物であると感じました。
ありがとうございました。災害時における通訳の存在は、復興の土台であると思いました。東日本大震災は阪神大震災と比べて、被災者の多くが高齢者という点や、田舎という地域が原因で復興が長引いているという点で大きく異なります。特に、よそ者を拒むといった考えが問題になっていると聞きました。同じ環境で生活している人や、同じ経験をしている人にしか、話せないようなこともあると思いますし、地域の情報を外に伝えるためにも、被災地におけるコミュニティは大切だと思います。
山口さんのインタビューを終えて私達は、被災者にとって一番重要なのは、人と人とのつながりであると実感しました。一度被災すると、被災者の気持ちがわかるようになり、救援のお返しをするようになる文化が生まれるといった話は、阪神大震災の一被災者として、とても共感できました。
支援の形に関しても、今までただ募金をする、ただ救援物資を送るだけ、などの行政からの支援しか頭になかった私たちにとって、被災者の人間関係を第一に考える山口さんの支援の形にはとても驚かされました。これから起こりうる災害のためにも、人間関係を重視した復興プランを立てておくことが、地震大国である日本の責任ではないかと思います。
最後に、私たちは東北の人たちに伝えたいことはなんですか?と山口さんに聞きました。それに対し山口さんは「私たちは見ているよ」と答えました。
被災者にとって一番つらいことは忘れさられることです。阪神大震災の被災者である僕の両親もよく、被災していない人たちにとって、震災は他人事だと言っています。
だからこそ、「災害は忘れられたらおしまい」、といった山口さんの言葉には、とても説得力がありました。様々な形の支援がありますが、根底にはきっと、「私たちは見ている」といった、大切なメッセージが込められていると実感しました。
posted by FMYY at 17:07| Comment(0) | podcast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月13日

「阪神・淡路から東日本へ神戸の教訓は生かされたか?」第3回

120607_sou.JPG
第3回目の担当 ディレクターの荘、本谷、越智、柴田、阪上
神戸山手大学の教授である小林郁雄さんにお話を伺いました。今回小林さんに、お忙しい中時間を作っていただき、私たち学生にも分かりやすく丁寧に説明してくださってとても気さくな方でした。小林さんは、現在まちづくり専門のコンサルタントである株式会社コープランや、人と防災未来センターの上級研究員をされています。行政と市民の間に入って話をしたり、人材の派遣をおこなっていらっしゃいます。阪神淡路大震災の時は市民が主体のまちづくりをテーマに尽力されていました。

◆越智
小林さんの阪神淡路大震災の経験・活動。
はい。わたし越智は、小林さんの阪神淡路大震災の経験・復興活動について話します。震災発生当時、阪神地域の人々はあまりの被害の大きさに絶望していました。小林さんはその時、阪急の六甲駅の近くのマンションに住んでいました。幸いそこは震災の被害を比較的大きく受けていない場所であったので小林さんの家は壊れませんでしたが家の中の多くの家具が壊れてしまったそうです。
そんな中小林さんは都市計画の専門家たちを集めて復興計画を立てていくことにしました。その計画はまず地域ごとの被害の程度を調べることから始めます。被害の規模はとても大きく、被害の種類も様々であったのでその作業はとても時間のかかるものでした。その結果、一番大きい被害として挙げられたのが火事でした。なぜなら、建物の中のほぼすべての物が燃えて無くなってしまうからです。そのため、火事で被災した地域の被害額は他の地域に比べ甚大なものでした。さらにこのとき、火事の被害は地震により断水が起きてしまっていたため消防車による消火がうまく行われず被害はより大きなものになってしまったのです。小林さんたちは火事の被害を受けた地域を集中的に復興させていこうと決めました。
このような復興をしていく中で人々が元々住んでいた場所の大きさを小さくし、道路の大きさなどを拡大していくといった区画整備が行われました。この区画整備の一貫が神戸の震災復興における都市地域計画と呼ばれており、ほとんど既存の都市計画制度が適用されることになったのです。
しかしこの計画は全く被災者に相談もなく決定をしてしまっていたのです。そのため、地元住民たちは説明を聞いていないことに大きな不満を持ち批判が頻発しました。この住民との間の問題を解決するために神戸市はまちづくり協議会というシステムを作ったのです。まちづくり協議会とは地域の人たちが集まって協議会をつくり専門家などの支援を受けてまちづくり提案を出していくというものでした。つまり地域の人たちが自分たちの街を自分たちの手で考えていこうという考えのもとにあるものです。
この街づくり協議会は住民・事業者・行政で一緒にやるという協同のまちづくりを進めるシステムとしてなり立っています。小林さんたちは住民・事業者・行政の間に立って、専門家としての支援活動をしていくことを目的とした「市民まちづくり支援ネットワーク」というものを作りました。市民まちづくり支援ネットワークにより復興の分野に応じた専門的な対応が可能となったのです。神戸の復興はこれ以降円滑に進めることが可能となりました。
小林さんは復興をしていくにあたって非常に重要なことは様々な人が出会うネットワークを用意することだと言っています。阪神淡路大震災の今に至るまでの復興はこのような人たちの努力が背景にあったのです。
司会:本谷
越智さんは阪神淡路大震災の記憶やどのような状況であったか覚えていますか。
わたし越智の家族も地震によって大きな被害を受けました。祖父母の家は崩壊してしまい、父も地震によって転職を余儀なくされてしまいました。そのような経験をしているからこそ小林さんの話はとてもわたしにとって興味深いものでした。小林さんは復興計画を立てていくに当たり地元住民の理解を得ることに非常に苦労したといわれました。復興というものは街を元の状態に戻す工事などをできる限り迅速にやるというイメージを持っていましたが何よりも人々の気持ちに配慮するという事が大事だという事を今回の話で学ぶことができました。現在僕が何気なく住んでいる場所は人々の血のにじむような努力によってもたらされているのだと思うとわたしは心から感謝の念を覚えます。このような努力があったことを後世の人々に伝えていくことはとても大事だと思いますのでわたしもそれに努めていきたいと思っています。
司会:本谷
復興といってもすべてを一度にすることはできませんので、どの部分からするのか決めることはとても大切な事だと思います。また、勝手に計画するのではなく、地域に住む人と話し合うことはとても大切なことだと思います。
hinanseikatsu_0004_04.jpg

◆柴田
阪神淡路大震災と東日本大震災の違い。
私柴田は阪神淡路大震災と東日本大震災の違いについて話します。阪神淡路大震災では、神戸、西宮、宝塚などいわゆる都会が主に被災しました。しかし、東日本大震災では、石巻、気仙沼といった人口5万人以下の地区が被災の中心となりました。
阪神淡路大震災で被災された人の多くが会社員であるのに対し、東日本大震災で被災された人の多くは、漁業、農業などの一次産業を仕事にしています。
つまり、生活スタイルが異なっています。生活スタイルが異なっていれば、2つの地震によって生じた問題も異なっていると言えます。
阪神淡路大震災では住む場所を中心に復興していきましたが、東日本大震災では住む場所だけでなく、漁業や農業などで働く場所を津波によって奪われてしまったので、仕事をする環境をまず整えていく復興をする必要があります。
さらに、被災の大きさも全く違います。阪神淡路大震災の場合は、20ヘクタール程の範囲で復興都市計画事業が進められ、被災者のための住宅開発面積は、70ヘクタールから100ヘクタールといった規模で、甲子園球場約100個分の広さです。東日本大震災の場合、たとえば石巻市では20㎢が津波で浸水したり、10㎢にわたって家がなかったりということが起きています。ヘクタールと㎢では桁が2つ違うので、東日本大震災の被害は阪神淡路大震災の被害の100倍ほど違います。
阪神淡路大震災と東日本大震災の主な違いはこの2つです。
司会:本谷
柴田さんは生活スタイルが違う、被災の大きさが違う、という2つの違う点を小林さんから聞いたときにどのように感じましたか。
阪神淡路大震災と東日本大震災は、共に大きな地震であるので、小林さんに話を聞くまでは同じような問題が起こっていると思っていました。
実際には、その地域に住んでいる人々の職種によって生活が異なるので、生じる問題も異なるということを知り、自分の考えが浅はかであったと反省しました。
東日本大震災では、地震によって津波が発生し、阪神淡路大震災とは比べ物にならないほど広い範囲に被害が拡大しました。
陸に大きな船が打ち上げられていたり、建物の屋根の上に船が乗っかっていたりと、津波による被害の大きさはテレビでも再三報じられていたので、知ってはいましたが、阪神淡路大震災と具体的に比較したときに被害が100倍も大きいことに大変驚きました。
東日本大震災の被災者の多くは漁師であり、漁師にとって必須の船が家もろ共津波によって無くなってしまったので、家と職を同時に失ったことになります。
家も職も失ってしまった人たちがもとの暮らしを取り戻さなければならないことを考えると、復興にはまだまだ時間がかかる気がします。

司会:本谷
震災と言っても規模、地域が違います。また、そこで生活する人の生活スタイルが一番の違いだと思います。阪神淡路大震災では、会社員の多くが被害を受けたのに対し、東日本大震災では主に自営業をされている人が被害を受けています。スタイルが違うということは、支援する形も変わってくると思います。では、震災の規模、生活スタイルの違いがある中、阪神淡路大震災の教訓は生かされたのでしょうか。
◆荘
阪神淡路大震災の教訓・活動を東日本大震災で活かせたか。
私荘は阪神淡路大震災の教訓を東日本大震災で活かせたかどうかについて話したいと思います。
結論から言います。東日本の90%の地区では阪神淡路大震災の教訓は活かせない。これが小林さんが出した結論です。
しかし、残り10%の地区では阪神淡路大震災の教訓が活かせるといわれております。
この10%の地区というのは各々の市の中心部を指しており、人がたくさん集まるようなところであります。
10%の地区では、阪神淡路大震災後に行われた「まちづくり協議会と市民まちづくり支援ネットワーク」が活用できるといわれております。
なぜなら、人が集まる地区では住んでいる市民が復興の主体となり、行政と手を組み、また都市計画に関する専門家との話し合いのもと、具体的なまちづくりを行うことができるからです。
よって10%の地区では、阪神淡路大震災の教訓を東日本大震災で活かせるといえるのではないでしょうか。
司会:本谷
教訓は90%では生かされ、残りの10%では生かされないという点について宗さんはどのように感じますか。また、荘さんが考える復興案はありますか。
私荘は小林さんの話を聞くまでは東日本大震災も阪神淡路大震災と同じような都市計画で復興にのぞめると思っていました。
しかし、やはり住んでいる地域の地理的問題や人間、生活などが異なっていれば、それに対応する都市計画もまた異なったものになるのだなと、驚かされました。
しかし、それでも、そこに住んでいる市民が主体的に自分たちのまちを作り直す。
といった大まかな所はたとえ被災地の状況が異なっていようとも、一致させるべきなのではないかとも思いました。
10%の地域はまちづくり協議会や市民まちづくり支援ネットワークのような仕組みによって、市民主体のまちづくりが実現できそうです。
そして、大部分の90%もどうにかこのまちづくり協議会や市民まちづくり支援ネットワークのような仕組みを活かせるか今後の課題になるような気がします。
そこで私が考えた案なのですが、90%の大きな地域の括りを細かくわけます。
そしてある程度被災の状況が類似している地域を分類し、その地域毎にあったまちづくり協議会や市民まちづくり支援ネットワークのような仕組みを行うことで、90%の大きな地域にも対応できると思います。
今後震災が起こった時も、市民主体のまちづくりを、どの地域にも活かせるようにすれば、阪神淡路大震災の教訓は今後とも十分に活かせるように思います。
司会:本谷
生かされた点もあれば生かされなかった点もあるということですね。教訓が生かされる地域はまちづくり協議会や市民まちづくり支援ネットワーク生かして行えればいいのではないでしょうか。
また、いかせられなかった点に関しては難しいと思いますができることからやっていければいいのではないでしょうか。では最後に小林さんが考える復興策を阪上さんお願いします。
◆阪上
私阪上は今から阪神淡路大震災の時の都市計画が残りの東日本大震災の残り9割の範囲に通用するかどうかについて話します。
先ほど荘さんが、言った通り阪神大震災で通用した、復興のためのまちづくりは、今回の東日本大震災の復興には、1割の範囲にしか通用しないのです。 
残りの9割の範囲には、はっきり言って通用しないそうです。
9割に通用するものと言えば堤防や高台の強化などがありますが、これはまた東日本大震災の津波のように予測できない高さの津波が来た時には同じようなことが起こってしまうかもしれません。
阪神淡路大震災の時の区画整理は約230ヘクタールで、東日本大震災と比べると、この230ヘクタールという大きさは石巻の一地区にしか過ぎないのです。
被害があった範囲の大きさの違いもありますが、一番は神戸が都会なのに対して、東北の被災地はほとんどが一次産業の盛んな地域だったということです。     
人口一万や二万の町だと市民支援ネットワークは難しく、住んでいるほとんどの人は、漁業などの一次産業をしている人で、阪神淡路大震災の時より会社員の人は少なかったのです。 
だから、普段漁業をしている人に会ったまちづくりを提案するのは、都会のまちづくりを対象に阪神大震災の復興にも携わってきた小林さんにも想像がつかないくらい難しい問題だそうです。
ただ、被害にあった場所の大半は漁場や海岸なため漁業者たちなどの一次産業者同士で相談する必要があるとおっしゃっていました。
たしかに漁業の世界は私たちにはわからないルールなどがたくさんありそうなので、漁師さん同士で相談しお互いが納得して復興を目指していくことは大切だと思いました。   
また、小林さんは、仙台や盛岡のまちづくりの専門家なら一次産業者に合ったまちづくりをアドバイスできるかもしれないとおっしゃっていました。
次に、小林さん本人が被災地に伝えたいことについて話します。
今被災地で頑張っている人々は被害が思っていた以上に広範囲で自分ではどうにもならないと思っている人が多いと思いますが、立ち上がって、市民のまちづくりは市民がしなければならない。自分たちで決めて自分たちで行動しなければ復興とは言わないし、まちが元に戻っても10年、20年と継続していかなければ意味がないとおっしゃっていました。 
私が小林さんの話を聞くまでは、普通、まちが元に戻って元の暮らしが出来ればいいかなと思っていたのですが、十年後や二十年後のことも見越して復興していこうという考えはまちづくりの専門家ならではの考えだと思いました。
司会:本谷
街づくり専門の小林さんでも今回の東日本の復興策を考えるのは難しいみたいですね。阪上さんは今回のインタビューでどのようなことを学びましたか。
私は今回小林さんにインタビューさせてもらいあらためて震災からの復興の難しさを知りました。
復興することは、簡単ではないし自分には何もできないと思ってしまうかもしれませんが、自分でも何かできると思う強い気持ちを持つ事が大切なのだと思いました。 
また復興は行政や専門家だけが、がんばっていても、被災地に住んでいる人全員が納得できるまちづくりをするのは難しいと私は思います。
住民が中心に立って復興を目指していくぐらいの気持ちを持って話し合い、みんなが納得できる復興策を見つけていくことができれば理想的だと思いました。
司会:本谷
私たちは今回小林さんを取材させていただいて地域・住む人の生活スタイルによって復興政策を変えていかなければならないということを知りました。実際、東日本大震災では、仕事を失った人が多くいらっしゃったので仕事を優先していかないといけないとわかりました。小林さんは阪神淡路大震災の教訓は東日本大震災にはあまり生かされないとおっしゃっていましたが、なんにせよそこに住む一人一人が行動していかないといけないともおっしゃっていました。辛いことを経験されたと思いますが、住む人が主体となっていかなければならないと思います。これで私たちの番組を終わります。ありがとうございました。
posted by FMYY at 18:21| Comment(0) | podcast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月12日

「阪神・淡路から東日本へ神戸の教訓は生かされたか?」第2回「ガレキに花を」

120531group.JPG
「阪神・淡路から東日本へ神戸の教訓は生かされたか?」第2回「ガレキに花を」米坂チーム。
担当2回生の米坂千帆子、3回生の片岡ちか、2回生の大村紗貴、2回生の藤原紗千、2回の狩谷光帆子。
amakawa1.JPG
◆大村
私たちは天川佳美さんを取材してきました。突然ですが、みなさんにお聞きします。「ガレキに花を」というフレーズを聞いてどう思いますか。何か惹かれるものを感じませんか。私たちも「ガレキに花を」というフレーズに惹かれて、他の人と違う視点だと感じ、天川さんに取材をしようと思いました。
それでは、ここで天川さんについての紹介をしたいと思います。天川さんは、都市計画コンサルタントという職業の方です。阪神淡路大震災が起こってから2か月たった神戸で『ガレキに花を咲かせましょう・阪神市街地緑化再生プロジェクト』を立ち上げた方です。
今回私たちは、初めて天川さんとお会いしました。人柄がとても良くて、やさしい印象の方でした。
皆さんは都市コンサルタントという仕事どういう仕事なのか、疑問に思われた方も多いと思います。ここで、都市コンサルタントという仕事を説明していきます。都市コンサルタントという仕事は簡単に言えば「都市開発の企業」です。なので、その時代に合わせてより良い街を創っていく仕事です。
私は、今までに聞いたことのない職業でした。なので、都市コンサルタントという職業の方たちはとても、人々がより良い街に住めるように努力されていて、人々に貢献されているなと思いました。
amakawa2.JPG
◆狩谷
阪神・淡路大震災後に、震災の跡地の光景を見ると、おそらくそこでは、震災に遭って亡くなられた方がおられたのでしょう。
そこには倒壊した家や建物の横にぽつんと花が供えられているところがあったそうです。その状況を見ると、何本かの花がぽつんぽつんとあるだけなので、見た目がとても寂しいです。
そして、そのままでは誰もが気にかけなくなって、放置されてしまうと思ったそうです。
その時、天川さんは、震災で被害のあった地域が、ある日突然お花いっぱいで埋め尽くされていて花畑になっていたら、そこを訪れた人がきっと驚き、自然と笑顔になれるんじゃないか?震災後の殺風景な景色から、少しでも活気づくのではないか?と思われたそうです。
この天川さんの思いが、「ガレキに花を」プロジェクトのはじまりとなったそうです。
また、天川さんの思いとしては、花畑にしたところに震災前にそこに住んでいた人たちが、もう一度ここに住みたいと思ってくれたら、花畑をくずしてもいいという思いがありました。
だから、この花畑がガレキからまちの再建への一歩につながったらいいなという思いも込められていたのです。その結果、その花々はガレキからまちづくりへの第一歩として人々にとって希望の花となったそうです。
花畑を訪れた人は、花を植えた人たちの懸命な心を感じ温かい気持ちになれたのではないかと思います。
また、その場所が花畑を通して、震災で亡くなった人とそこを訪れた人との心のコミュニケーションができる場所になっていたのではないでしょうか。
それと同時に、被災したけど、新たな生活を始めようとしている人同士がお互いを励まし合うことができる空間になっていたのではないでしょうか。
私はこの天川さんの話を聞かせていただいて、自分自身も、普段の生活でも何か、人々の心と心をつなぐ空間を作っていきたいと思いました。
また、天川さんのようにふとした思いつきを大切にし、周りの人への感謝を忘れずにそれを行動に移していくことで初めて、想いが具体的なものに変わっていくのだということを改めて感じました。
amakawa3.JPG

◆藤原さん
震災で崩れた自宅の跡地が、天川さんの「瓦礫に花を」の活動によって、コスモス畑に変わったのをご覧になられた方がいらっしゃいました。
その方は、コスモスが咲く、自宅のあった場所を見て、「すごくステキなプレゼントだ」とおっしゃったそうです。また、「震災前に自宅があったところにもう一度住みたい」とも言ってくださったそうです。
このエピソードを聞いて、天川さんの瓦礫に花を植える活動によって、心を癒され、気持ちを切り替えるきっかけに巡り合った人のリアルな思いに触れることができました。
瓦礫になった自宅跡がコスモス畑に変わったのを見たこの人のような方は、きっと他にもたくさんいらっしゃったのではないかと思います。
「瓦礫に花を」の最終的な目標は、「家が建ったら、次は緑を植えて、移動式の生垣を作り、それをたどっていくと、最後には公園があるようにすることだ」と天川さんはおっしゃいました。
公園は、学校の校庭と同じように、大きな空間があるので、安全な場所だそうです。
私はこの話を聞いて、「瓦礫に花を」の最後は、緑のある公園、というのは、花を植えて被害にあわれた方々の心を癒す、というところで終わらず、瓦礫に花を咲かせる活動をこれからの生活の安全や安心につなげていくということだと思いました。
また、阪神淡路大震災で学んだことはありますか?とお尋ねしたところ、天川さんは、「何か考えついたときは、まず、行動すること、やってみることだ」とおっしゃいました。
天川さんは、「ガレキに花を」の活動以前は、みんなが快適に仕事できるようにするのが 自分の仕事だと思われていたそうです。
しかし、「ガレキに花を」の活動の後、街づくりは(都市計画)は色んな人ができる仕事だと知った、と天川さんはおっしゃっていました。
考えるだけではなく、実際に動くことの大切さを私は天川さんのお話を聞いて感じました。また、考え付いたことを実際に行動することで、今までとは違った経験ができるのだと思いました。

◆米坂
初めこのガレキに花を植えるという活動を行っていたと知った時、花に注目するとは今までにあまりない視点だなと思いました。
みなさん想像してみてください。もし道端に花束が置かれていたら、「ここで誰かが亡くなったのだな」と少し悲しい気持ちになりませんか?しかし、天川さんのお花畑を見たらその悲しい気持ちも少し和らぐと思いませんか?また、お花を植えてくれる人がいるんだとうれしくなりませんか?
お話を伺ったときも、ささいなことだけれどこのささいなことから人々の心が温まり、悲しみを少しでも埋めてくれるのだなと感じました。
しかし、今回の東日本大震災は被災範囲の広さ、津波・原発の影響等、阪神淡路大震災のときとは規模が大きく違い、花を植えるという活動はもちろん、自身が神戸の被災で経験したことも役に立たないと天川さんは一番に感じたそうです。
私たちも神戸のときとは被災規模の違う東日本大震災に天川さんがどのように対応しているのか注目していたのですが、さすがの天川さんも自身がどう行動に移すべきか分からなかったそうです。
しかし、東日本でもある活動がなされていたのです。それは、ガレキに花を植えるという活動です。
この活動は天川さんが神戸の時に行っていた活動と同じものですが、これは天川さんの例にならって東北の人々が始めた活動ではありません。
見渡す限り何も無くなった大地に命を蘇らせる方法は「花の種をまく」ことしか思い浮かばなかった。そこでその種をまく作業を実際に始めようと東北の人々が立ち上がったのです。
天川さんは直接この活動に関わっていませんが、みんな考えることは一緒なのだなとおっしゃっていました。
私は花に目を向けるなんて新しい視点だと先ほども言いましたが、おそらく震災を経験した者なら何かしらの生命力を感じたくなり、そしてみんな花を植えようという結論に至るのではないのだろうかと思いました。
天川さんは自身の経験が役に立つなら今後、手助けしていきたいそうです。
amakawa4.JPG
◆片岡
また私たちは、阪神淡路大震災を経験した天川さんの視点からの東日本大震災、そしてこれからの被災地に伝えたいことを取材してきました。
天川さんは直接関わっておりませんが、東北では既に土地に花を植えるプロジェクトが始動しています。
しかし、それまでの東日本大震災での被災地支援の動きは決して順調なものではなく、天川さんは「神戸での経験が生かされているとは思わない」と仰っていました。
例えば、阪神淡路大震災のときに天川さんは仮設住宅の玄関と玄関が向き合っていないことを取り上げて、玄関が向き合って住民同士でコミュニケーションを取れるようにする方がいいと提案しました。
しかし東北の被災地の仮設住宅でも玄関が向き合っておらず、被災地に暮らす人々への細やかな配慮が足りないと指摘しています。
そして最後に天川さんに質問した被災地に伝えたいことについて、私たちは「10年辛抱してください」という言葉を頂きました。
これは天川さんの経験によるもので、「10年の間は震災を経験出来たことに対して”ありがとう”という言葉を封印していた」という言葉から、これから被災者を待ち受けている苦難を乗り越えて欲しいという気持ちではないでしょうか。
今回天川佳美さんを取材させていただいて、私たちは神戸での経験を生かしきれていないという被災地の厳しい現実を垣間見ました。
被災地を支援するということは簡単なことではなく、ガレキに花を咲かせましょうのプロジェクトの裏側では、被災者の苦悩や復興への強い希望が隠れていたことを知りました。
そして天川さんの仰っていたまちづくりとは「住民と住民をつなぐパイプの役割」であり、これから大きな災害が起こったとき、私たちがそのパイプになることを意識して生きていかなければならないと今回の取材を通して強く感じました。
以上で、8班の発表を終わります。ありがとうございました。
posted by FMYY at 18:47| Comment(0) | podcast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月09日

「阪神・淡路から東日本へ神戸の教訓は生かされたか?」第1回


大出:本日、第一回目の私たちのタイトルは、「住民の住みやすいまちづくり―野田北の経験をもとに―」です。このたびディレクターをやらせていただくことになりました。関西学院大学総合政策学部メディア情報学科2回生の大出有佳子です。よろしくお願いいたします。では、早速メンバーに自己紹介してもらいたいと思います。

posted by FMYY at 21:09| Comment(0) | podcast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室春の特番「放射能の時代を生きる」第6回

1205_Park.jpg
担当:朴勝俊さん
環境経済学者の視点で



posted by FMYY at 21:04| Comment(0) | podcast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

関西学院大学総合政策学部山中速人研究室春の特番「放射能の時代を生きる」第5回

1205_Park.jpg
担当:朴勝俊さん
環境経済学者の視点で


posted by FMYY at 21:02| Comment(0) | podcast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。